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【アラベスク】  第19章 朝靄の欠片



第3節 異郷のVega [12]




「えぇ? 何よそれ、そんな事、できるワケが」
「何でだよ? 別に構わねぇだろ」
「だって、そんな、工場辞めるだなんて、そんなの無理」
「何で?」
「だって、私、稼がなきゃ。稼いで、お金送って。それに、私だって生きてかなきゃならないのに、そんな、辞めるだなんて。そんなの無理だよ。稼がなきゃ生きていけない」
 そうだ、早苗は稼がなければならない。貧しい実家に彼女の生活費を工面するだけの力は無い。自分の生活費は自分で稼ぎ、弟の学費や妹や親の生活費も稼がなければならない。その為には、何があろうとも辞めるわけにはいかない。何があろうとも。
「辞めるなんて、そんなの無理」
「だったら俺ンとこ来いよ」
「え?」
「俺ンとこ来い」
 両手で早苗の両の肩を握る。
「俺ンとこに来ればいい。そうすれば、毎日工場で働く必要もねぇし、他の奴らに虐められる事もない」
「ちょ、ちょっと待って。何言ってんの?」
「俺んとこ来いよっ」
 肩を揺さぶった。
「俺ンとこに来ればいい」
 夕闇に紛れたキスは優しくて、早苗は何が起こったのかしばらくわからなかった。
「俺ンとこ来い。ずっと、俺の傍にいろ」
「それって」
 途端、頬を紅潮させて瞳を泳がせる。その表情が愛らしくて思わず抱き締めそうになって、だがそれは早苗の両の手で遮られる。
「そんなの無理」
 吹き流れる風と同じような、冷たい言葉だった。
「無理だよ」
「なんで?」
「だって、アンタは社長の息子で、私はただの工員だよ。傍に居るだなんて」
「別にいいだろ。何がいけないんだ?」
「他の人が許さないよ」
「他の人?」
「会社の人とか、世間とか、それに、アンタのお父さんとかお母さんとか。私、何度か職制に呼ばれた事があるの。女工の身分で栄一郎様と親しげにするなって。会社の顔に傷が付くって。会社の名前に傷がついて売り上げが落ちたらどうしてくれるんだって」
「そんな事を」
 実は栄一郎も、同じような事を会社の役員などに言われた事がある。身分を考えてもらいたい。物好きも大概(たいがい)にしてくれ。遊ぶにしても相手を選ぶべきだ。世間の目もある。会社の世間体も考えてくれ。
 父親に呼ばれて叱咤もされた。だが栄一郎は聞き流していた。
 早苗のいない生活など、考えられない。
「気にするな。気にする事はない」
 ギュッと小さな身体を抱き締める。
「他の奴らなんて、気にする必要はないんだ。俺の傍にいればいい」
「アンタの、傍に」
 小さく呟く声は落ち葉と共に舞い上がり、風に乗っては消えてゆく。
 二人で、ずっと一緒に。
 過酷な労働からも、理不尽な先輩からも、身に沁み付いた孝行心からも開放されて、もっと自由に生きる。
 夢のようなお話。本当に、夢のような。
 抱き締められたまま目を見開いて虚を見つめる早苗の瞳には、いったい何が映っていたのだろうか? やがて彼女は、腫れた瞼をそっと閉じ、少しだけ身を栄一郎に預けた。



 寮に戻った早苗は、皆が食堂に殺到している隙をみて、荷物をまとめて寮を出た。栄一郎が守衛を言いくるめた。
 どこへ行く? 栄一郎の自宅へなどは行けない。電車では他人の目もあると思い、タクシーで富丘へ向かった。少女を連れ立って再びやってきた孫に、祖父は今度は露骨に眉を潜めた。
「隠居の身で口出しなどをするつもりはないが、会社を傾けるような事はしてはくれるなよ」
 さすがは元経営者。やはり結局は可愛い孫よりも会社か。
 心内で舌を打つ。
「こんなの、すぐに知れるよ。連れ戻される」
「知れたって構わねぇよ。どうせここには長居はしねぇ」
「じゃあ、どこへ?」
「東京へ行こう」
 ずっと憧れていた夢の楽園。
「東京?」
「こんなところよりもずっと都会だ」
「東京なんてところに行って、どうするの?」
「どうとでも」
「どうとでも?」
「働いて、金を稼いで、二人で暮らす」
 きっと東京でならできる。出て行った奴らはみんな夢のような世界で自由と若さを謳歌しているんだ。俺にだって、俺たちにだってきっとできるはずだ。
 東京に行けば、何でもできる。どんな夢でも叶える事はできるはずなんだ。
「仕事って、何かアテはあるの?」
「無い。だが知り合いは何人かいる。ツテならいくらかはある」
「学校は?」
「辞める」
 勉強は嫌いではないはずだが、親の為に、家の見栄のために通う大学などには未練はない。大学など東京にもある。勉強がしたければ、自分で学費を稼いで入りなおせばいい。金くらい、なんとでもなる。俺だってその気になって働けば、学費や生活費くらい稼げるはずだ。
 そうだ、一生懸命働いて、金を稼いで、早苗を大学へ行かせてやろう。そうして本もいっぱい買ってやって、好きなだけ読ませてやるんだ。彼女の為にだったら、きっとどんなに辛い仕事でも耐えてみせる。
 そうだよ。東京へ行けば、なんでもできる。
「東京へ行こう」
 遥か彼方、遠く未知の世界で待っているであろう自分たちの自由と幸せが、栄一郎を明るく照らす。
 これでいい。俺は、こんな人生を望んでいたんだ。
 まるで霧が晴れるかのよう。今までの、胸の内にモヤモヤと漂っていた感情が、サァッと引いていくかのように感じられた。
 翌日、木崎がやってきた。
「大変な事になっていますよ。栄一郎様がいなくなられて」
「一晩くらい帰らないのなんていつものことだろ」
「きっかけは山脇様の失踪でございます」
「一人くらい減ったからって」
「去年の不況に伴う大幅な人員削減が影響しております。一人当たりに加せられる仕事が増え、その分、一人減るだけでも工場にとっては痛手なのです」
「なるほど。で、俺たちがここに居るって事、みんなにはもう知れたのか?」
「まだ知れてはおりません。ですが、時間の問題です」
「お前はよくわかったな」
「栄一郎様の考えるような事など、大体は」
「言ってくれるな」
 ふんっと鼻で笑う。
「まぁ、騒がれ始めたんならこちらも早々に動かないとな」
「動く、とは?」
 チラリと木崎の瞳が光る。栄一郎より年下のはずなのに、時々年上なのではないかと錯覚する時がある。
「お前に言ったところで意味もない」
「隠す必要も無いでしょう」
「親父にでも告げ口するつもりか?」
「そんな事せずとも、すぐに知れてしまいますよ」
「だったらなおの事、すぐに動かないといけないな」
「東京、ですか?」
 本当にコイツは俺よりも年下なのだろうか?
 無言のまま睨みつけてくる相手に、木崎は嘆息。
「そんな事だろうと思いましたよ」
 大袈裟に肩を竦める。
「なぜ判った?」
「誰にだってわかりますよ。あれほど東京、東京と騒ぎ立てていたのですからね」
 カッと頬が紅くなる。
「俺は、軽い気持ちで東京に行くんじゃない。東京で絶対に身を立てて」
「どのようなところかもわからないのに?」
「行けばわかる」
「身が立たなかったら?」
「立てる。立つまで帰らない。いや」
 一人前の社会人になって、そうなっても、もう帰ってはこない。こんなド田舎、こんな閉鎖的な社会、こんな、俺の夢や願いを阻む事ばかりしか起こらない所になんて、帰ってくるつもりはない。
「未練も執着もない。どの道、もう引き返せない」
「まぁ、このような騒ぎになってしまったのですから、タダでは済まないのでしょうけれども」
 小さく息を吐き、庭へ目を向ける。
「そのように上手くいくものなのでしょうか?」
「案じるな。成せば成る」
「成せば、ですか?」
「そうだ。それに、俺が東京へ行けば、お前だって楽だろう?」
「私?」
 キョトンと目を丸くする。
「俺が半強制的にお前を知多にまで同行させていたからな。俺という枷が外れればお前は自由だ。またこの富丘で暮らせる。親父さん、春に腰を痛めたんだろう?」
「私は別に、枷などとは」
「いいさ、どうせ俺なんてどいつにとっても厄介者だ」
「しかし、栄一郎様がいなくなってしまっては、霞流の家は」
「叔父や叔母もいる。姉貴の旦那もいる。跡を継がせる奴なんていくらでもいるさ。どうせみんな霞流の財産を狙ってるんだ。俺がいなくなればむしろ願ったりかもしれない」
「そのようなお言葉は」
「いいんだ。どうせそうなんだから」
 両腕を上げて大きく伸びる。







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